「世界中のホースマンに、第60回のダービーを勝った柴田ですと伝えたい」
(柴田政人騎手、1993年東京優駿(第60回日本ダービー)勝利後のインタビューにて)
生産者、馬主、調教師、騎手など、競馬に関わるすべての人(ホースマン)が目標とする、競馬界で最高の舞台“日本ダービー”。来たる2021年5月30日、東京競馬場でその78回目の決戦が行われる。
『ウマ娘 プリティーダービー』(以下、『ウマ娘』)でも多くのウマ娘たちの目標レースとして登場し、さまざまなドラマがくり広げられるダービー。皐月賞、菊花賞とともに“クラシック三冠”の一角を担い、2400メートルというスピードだけでなくある程度のスタミナも要求される距離に加え、5ヵ所におよぶ坂もあり、トレーナー(『ウマ娘』のプレイヤーのこと)にとって前半の最大の山場とも言える難関レースとなっている。
それだけでなく、覚醒レベル強化に“ダービー優勝レイ”が必要な育成ウマ娘が14人もいるなど、キャラクター育成にも欠かせないこのレース。本記事では、史実のデータや歴代優勝馬(ウマ娘のモデルには13頭も!)の活躍を追いながら、ダービーの価値や、史実が『ウマ娘』でどのような形のエピソードに落とし込まれているのかを解説していこう。
※本記事のデータは2021年5月27日時点のものです。
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リアル競馬におけるダービーの歴史
ダービー概略
- 開催:東京競馬場(東京レース場)
- 距離:芝2400メートル(根幹距離)
- 走る向き:左回り
- 開催時期:5月~6月(『ウマ娘』ではクラシック級5月後半)
- 出走条件:3歳(セン馬を除く)、優先出走権もしくは1勝以上(『ウマ娘』ではクラシック級、獲得ファン6000人)
ダービーは正式名称を“東京優駿(日本ダービー)”という。第1回は1932年(昭和7年)4月24日、東京都の目黒競馬場(1933年に現在の東京競馬場へ移転する)にて“東京優駿大競走”の名称で創設された。名称は何度かの変更を経て、1950年から“日本ダービー”の副称がつけられ、現在の呼称は1964年より用いられている。なお、開催地(東京)や距離(2400メートル)は創設当初から変更されていない。
オークスと同じく、イングランドの同名レース“ダービーステークス(英ダービー、またはエプソムダービーとも呼ばれる)”をモデルに作られた。ちなみに“ダービー”の名は創設者のひとりである第12代“ダービー卿(伯爵)”エドワード・スミス・スタンリー氏に由来したもの。
ダービーが“ホースマンの夢”と言われるワケ
もともと国内最高の格式と賞金額を備えたレースとして創設されたダービーだが、歴史を重ね、いつしか“ホースマンの夢”と呼ばれるようになった。ダービーを勝った馬主は“ダービーオーナー”と呼ばれるが、国内でほかのどんなレースを勝っても“○○オーナー”と呼ばれることはなく、ダービーだけが特別な栄誉をもたらす存在であり続けている。どんな競走馬でも一生のうち、クラシック世代(※)での一度しか出られない、という出走条件もダービーを特別なものにしているのかもしれない。
※クラシックレースとは、桜花賞、皐月賞、優駿牝馬(オークス)、東京優駿(日本ダービー)、菊花賞の5レースを指す。これらのレースは3歳しか出られない。また、秋華賞はクラシックレースに含まない。
かつてイギリスの首相を務めたウィンストン・チャーチルがダービーを評して「ダービー馬のオーナーになることは、一国の宰相になることより難しい」と言った……というエピソードが有名だが、どうやらこれは、後世の創作らしい。ともあれ、それくらいダービーというレースが特別ということなのだ。同国の競馬を模範とした日本においても、それは同様である。
また、同じクラシックレースのひとつ皐月賞は“もっとも速い馬”が、菊花賞は“もっとも強い馬”が勝ち、日本ダービーは“もっとも幸運に恵まれた馬”が勝つ、といういわれがあるが、これもダービーステークスの格言が元になっている。
出走条件については、牝馬(女馬)のウオッカが勝ったことからもわかるように、3歳であれば牡牝(男女)関係なく出走は可能。その理由は、ダービーがもともと“牡馬、牝馬の最高の能力試験”の名目で作られたからであり、去勢した馬“セン馬”は出走できない。なお、使われるコースはオークスとまったく同じなので、コースの特徴については前回の記事をご覧いただきたい。
ダービーに命を燃やした名騎手たち
ダービーは事実上、日本の3歳(昔でいう4歳)の最強馬決定戦であり、日本のすべてのホースマンが制覇を夢見るビッグレースである。通算4000勝以上を誇る日本競馬史上最高の騎手であり、『ウマ娘』のプロモーターも務めた武豊騎手が数多の素質馬に乗っても、デビュー12年目、10回もの挑戦を経ての達成となった。そのときの相棒こそが、“スペちゃん”ことスペシャルウィークである。
また、武騎手の長年のライバルであり、エルコンドルパサーの主戦としても知られる蛯名正義元騎手(現調教師)は、30年間で25回挑戦し、ついに勝つことができなかった。JRAで歴代4位となる通算2541勝、GIも26勝を数える蛯名騎手をもってしても、である。
本記事の冒頭の言葉は、ウイニングチケットに騎乗して勝利した柴田政人氏のもの。1948年生まれの柴田氏は、少年時代の1964年に史上2頭目のクラシック三冠を果たした名馬シンザンのレースに魅せられて「ダービーを勝ちたい」と誓い、騎手になってからも、なみなみならぬこだわりがあったという。ダービーへの思いを募らせる『ウマ娘』でのウイニングチケットの言動は、そんな柴田氏のエピソードに少なからず重なるものがある。
そんな柴田氏はデビューから24年、19回目の挑戦でついにダービージョッキーとなった。自身の苦労はもちろん、周囲のサポートや志なかばでターフを去った仲間たち、“政人コール”の大声援で祝福してくれたファンへの感謝など、万感の思いがあの言葉に込められていたのだろう。ダービーに勝つというのは、それほどたいへんなことなのか……。
ウマ娘のモデルとなった競走馬たちの活躍は……?
ついアツくなってダービーの歴史だけで予定文字数の4割も使ってしまった! ここからは『ウマ娘』に登場しているキャラクター(サポートカードのみの登場や、ゲーム未実装のウマ娘も含む)の中からダービーに勝ったウマ娘たちを紹介していこう。
- 1983年 ミスターシービー(ダービー前6戦5勝。史上3頭目のクラシック三冠馬)
- 1984年 シンボリルドルフ(ダービー前5戦5勝。史上4頭目のクラシック三冠馬)
- 1985年 シリウスシンボリ(ダービー前5戦3勝)
- 1988年 サクラチヨノオー(ダービー前7戦4勝)
- 1990年 アイネスフウジン(ダービー前7戦3勝)
- 1991年 トウカイテイオー(ダービー前5戦5勝)
- 1992年 ミホノブルボン(ダービー前5戦5勝)
- 1993年 ウイニングチケット(ダービー前6戦4勝)
- 1994年 ナリタブライアン(ダービー前10戦7勝。史上5頭目のクラシック三冠馬)
- 1998年 スペシャルウィーク(ダービー前5戦3勝)
- 1999年 アドマイヤベガ(ダービー前5戦2勝)
- 2007年 ウオッカ(ダービー前6戦4勝。牝馬として64年振りのダービー馬)
- 2010年 エイシンフラッシュ(ダービー前6戦3勝)
そのほかのダービーに出走したウマ(ウマ娘)たち
- 1987年 ゴールドシチー(4着)
- 1988年 メジロアルダン(2着)、ヤエノムテキ(4着)
- 1990年 メジロライアン(2着)
- 1992年 ライスシャワー(2着)、マチカネタンホイザ(4着)
- 1993年 ビワハヤヒデ(2着)、ナリタタイシン(3着)
- 1997年 マチカネフクキタル(7着)、サイレンススズカ(9着)
- 1998年 セイウンスカイ(4着)、キングヘイロー(14着)
- 1999年 テイエムオペラオー(3着)
- 2000年 エアシャカール(2着。7センチ差で敗れる。サポートSSRカードの名前の元ネタ)
- 2003年 ゼンノロブロイ(2着)
- 2009年 ナカヤマフェスタ(4着)
- 2012年 ゴールドシップ(5着)
- 2015年 キタサンブラック(14着)
- 2016年 サトノダイヤモンド(2着。8センチ差で敗れる)
伝説の三冠馬
前回まで87回を数えるダービーの歴史の中でも、とりわけ輝いているのがクラシック三冠を達成したウマたち。『ウマ娘』のキャラクターとしても、ミスターシービー、シンボリルドルフ、ナリタブライアンの3人が登場する。
ミスターシービー
1941年のセントライト、そして1964年シンザン以来、久々の三冠馬となったミスターシービー。父は“天馬”と称されたスターホースのトウショウボーイ、母は重賞3勝の女傑シービークインというエリート血統だ。ちなみに、両親はデビュー戦で相まみえており、トウショウボーイが勝つことになるわけだが、その勝ちっぷりを見たシービークインの生産者が惚れ込み、一粒種として生まれたのがミスターシービーだという。なんともロマンチックな話である。
そんなミスターシービーは、天馬の仔らしい端正なルックスや見映えのする黒鹿毛の馬体、そして破天荒な追込戦法(※)で絶大な人気を誇った。1983年のダービーでは、圧倒的1番人気を背にしながら大きく出遅れ、さらに道中他馬にぶつかりながらも、怒濤の追い込みで勝利(出遅れがどれだけきびしいかはトレーナーの皆さんならわかるはず)。その後も蹄を痛めたり夏風邪を引いたりしながらも、菊花賞を勝って三冠馬に。つくづくとんでもないウマだった。
※当時は1レースの出走頭数に制限がなく(現在は18頭まで。16頭までの競馬場もある)、ダービーでは1コーナーまでに10番目以内につけていないと勝てない“ダービーポジション”があると言われるなど、先行馬が有利とされていた。
1983年 日本ダービー | ミスターシービー | JRA公式
シンボリルドルフ
“皇帝”シンボリルドルフも、ミスターシービーほどではないが当時のエリート血統。生まれたころから額に三日月の模様がついていて、牧場にいるころは“ルナ”と呼ばれていたらしい。ゲームでシンボリルドルフの白くなっている前髪が三日月の形をしているのも、その意匠が施されたということだろうか。
なお、アニメなどでシンボリルドルフが勝利時に指を天に突き上げているのは、主戦騎手だった岡部幸雄氏が勝利時のパフォーマンスとして、皐月賞では指を1本、二冠目となるダービーでは指を2本、そして三冠を達成した菊花賞では指を3本挙げたことに由来するものだと思われる。
デビュー戦の1000メートルから天皇賞(春)の3200メートルまで、あらゆる距離をこなし危なげなく勝ち続けた、まさに“皇帝”の異名にふさわしい強さだったルドルフ。1984年のダービーでは2番人気のビゼンニシキとの馬券が、そのオッズの低さから“銀行馬券”と呼ばれたほど。JRAのCMでは、「勝利より、たった3度の敗北を語りたくなる」と称されたが、勝つのが当たり前と思われるほど、ファンから絶大な信頼を受けていたのである。
1984年 日本ダービー(GⅠ) | シンボリルドルフ | JRA公式
ナリタブライアン
それから10年後の1994年。ナリタブライアンは、シンボリルドルフがダービーで記録した単勝1.3倍という驚異的オッズをさらに上回る単勝1.2倍(支持率約60%)という人気を集めた。視界を狭くして競馬に集中させる器具“シャドーロール”がトレードマークだったナリタブライアン。自身はかなり臆病で、その対策だったようだ。『ウマ娘』のナリタブライアンが鼻に絆創膏を貼っているのは、シャドーロールがモチーフだろう。またシャドーロール自体も、勝負服の胸元に付いたアクセサリーとして使われている。
ゲームでは固有二つ名“影をも恐れぬ怪物”にて、“皐月賞を3 1/2バ身差以上で勝利し、日本ダービーを5バ身差以上で勝利し、菊花賞を7バ身差以上で勝利し、有馬記念を二連覇する”というとんでもない取得条件が設定されているが、ここで示された三冠レースでの着差は、史実でナリタブライアンが記録したものだというのだからとんでもない(ただし、史実のナリタブライアンは、有馬記念は1勝のみ)。
また、現役時代には、同じ三冠馬のシンボリルドルフと比較されたり、兄ビワハヤヒデとの対決話で盛り上がったりしていた。残念ながら兄弟対決はビワハヤヒデの引退で実現しなかったものの、『ウマ娘』のシニア級にて、条件次第でそういった強豪たちと戦えるイベントが用意されているのも、このようなエピソードがあったからだろう。
1994年 日本ダービー(GⅠ) | ナリタブライアン | JRA公式
トウカイテイオー
骨折で菊花賞を回避したために、“無敗の二冠馬”でクラシックシーズンを終えることになったトウカイテイオーについても語っておきたい。父シンボリルドルフの二つ名“皇帝”にちなんで“帝王”と名付けられたトウカイテイオーだが、じつはデビュー時はそこまで注目されていなかった。しかし驚異的な運動能力と競馬センスでスターダムを駆け上がっていき、ダービーでは単勝1.6倍(支持率約50%)の1番人気に。その完勝たるレースぶりは、テレビアニメのSeason 2でも描かれた。
固有スキル名にもなった“テイオーステップ”は、実際に出走前にトウカイテイオーが見せていた軽やかなステップのこと。一般人は「うわぁ、軽やか!」で終わるのだが、競馬関係者は「なんちゅう柔軟性じゃ……!」と驚きの目で見ていたらしい。
ちなみに、アニメコラボで登場した新衣装の“ビヨンド・ザ・ホライズン”という名前は、メジロマックイーンとの対決を前に、父シンボリルドルフの主戦だった岡部騎手がトウカイテイオーの調教をつけた後、「地の果てまで走りそう」と言ったことがきっかけだと思われる。
その発言に対し、メジロマックイーンに騎乗する武豊騎手は「あっちが地の果てなら、こっちは天まで昇りますよ」と返したのだとか。新衣装版メジロマックイーンの“エンド・オブ・スカイ”という名称は、そこから来ているようだ。このセリフのやり取りは、テレビアニメSeason 2でも演出として盛り込まれているので、確認してみてほしい。
1991年 日本ダービー(GⅠ) | トウカイテイオー | JRA公式
記憶に残る勝利
ただ勝つだけではない。時代を経ても語り継がれるほどの衝撃。クラシック世代の最強馬決定戦では、いくつものドラマが綴られてきた。
アイネスフウジン
1990年のダービー。1番人気は、1961年にメジロオーが写真判定に泣き2着に終わってから、30年以上にわたってダービー制覇を悲願としてきたメジロ牧場の期待の星、メジロライアン。対するは、前年度の最優秀ルーキー、3番人気アイネスフウジン。
レースが始まると、アイネスフウジンは“いつも”のように逃げを打つ。しかしそのスピードは、“いつも”のそれではなかった。最後の坂を前に追いすがるライバルたちを振り切るほどの、異常なハイペース。後方に控えていたメジロライアンが脅威のパワーで坂を上り追い込むも、時、すでに遅し。美しい逃げ切り勝利だった。
1990年 日本ダービー(GⅠ) | アイネスフウジン | JRA公式
そしてその感動に突き動かされたかのように、主戦の中野栄治騎手を讃える「ナカノ」コールが巻き起こり、10万を超える声がそれに唱和する……。勝者を称えるスポーツ的な慣習が始まった、歴史的な瞬間だった。メインストーリー第3章でも語られたこの戦い、ウイニングチケットでなくても泣ける話である。タイシン、ティッシュお願い……。
ウオッカ
じつはリアル競馬でレースに出走するには、少なくない登録料がかかる。これは、GIレースになるとさらに多額に。そのため、クラシックを目指すなら牡馬は皐月賞、ダービー、菊花賞。牝馬は桜花賞、オークス、秋華賞と、3レースぶんだけ登録しておくのがふつうだ。
しかし、ウオッカ陣営は違った。「クラシック全部登録しておけ」と、強気なスタンスでクラシックシーズンに臨んだのである。さらに、桜花賞でダイワスカーレットに敗れ、ダービーはあきらめようと思っていた調教師に「出たいほうを選べばいい」と伝え、ダービーに出走が決まったというエピソードも……。そんなところも『ウマ娘』のキャラクター作りに影響したのかもしれない。
そして迎えた2007年のダービー。11年振りに牝馬として出走することになったウオッカだったが、単勝人気は10.5倍の3番人気(支持率約7.5%)に留まっていた。というのも、近年でこそ牡馬と互角以上に渡り合う牝馬も珍しくなくなったが、ウオッカのころはまだそれほど多くはなく(だからこそエアグルーヴが女帝と言われている)、2歳女王のウオッカとはいえ、きびしいのではないかと見られていたのだ。
しかしレースが始まると、有力馬がこぞって前に出ていくという、後方から差し切る作戦だったウオッカにとって、願ってもない展開となる。そして東京競馬場の坂をも苦にしない豪脚で見事抜け出し、64年振りの牝馬による制覇を成し遂げるのだった。
なお、ウオッカのシナリオでは先輩のナリタブライアンを尊敬しているシーンが随所に見られる。リアルではウオッカの祖父とナリタブライアンの父が同じ(名種牡馬のブライアンズタイム)という関係であり、それが設定に影響した可能性はある。
2007年 日本ダービー(JpnI) | ウオッカ | JRA公式
エイシンフラッシュ
2010年のダービーも、とんでもないレースだった。後に世界でも活躍した皐月賞馬のヴィクトワールピサや、エアグルーヴの仔であるルーラーシップなど注目の逸材が揃ったことで、戦前からハイレベルな展開が予想されていた。しかし、蓋を開けてみると近年の高速化の流れがウソのように、ゆったりとしたペースに。4コーナーに入っても、まだあと2000メートルは走りそうな緩さだった。
それが最後の坂に入ると一変する。全馬が広い東京競馬場の直線コースの内外に大きく広がり、400メートルのスプリント戦が始まったのである。世代最高の逸材たちの全力疾走を制したのは、7番人気のエイシンフラッシュ。なんと最後の3ハロン(600メートル)32秒7という、現在も破られていない驚異的な記録の末脚で並み居るライバルを蹴散らしたのであった。サポートカードイベントにて“末脚”のスキルを確定でくれるエイシンフラッシュだが、このエピソードからも末脚持ちにふさわしいキャラクターであることは間違いない。
2010年 日本ダービー(GⅠ) | エイシンフラッシュ | JRA公式
ちなみに、エイシンフラッシュは日本では珍しい、非常に濃厚なドイツ血統の馬。『ウマ娘』の彼女はドイツ生まれとなっているが、史実では母馬がドイツで種付けされた状態で日本に輸入され、日本で生まれている……と、ちょっとした違いはあるものの、勝負服がドイツの民族衣装風のデザインなのには、そういった背景がありそうだ。
また、礼儀正しい性格やパドックでおじぎをするアクションは、天覧競馬となった2012年の天皇賞(秋)での勝利後、鞍上のミルコ・デムーロ騎手が当時の天皇・皇后両陛下に下馬して最敬礼を行ったことに由来するのかも。計画性の高い性格については現役時、馬体重が484キロ~494キロの範囲をオーバーしなかったというエピソードから来ていると思われる(ほとんどの競走馬は、現役中に馬体重が20キロ以上は増減する)。
切磋琢磨するライバル関係
BNW
テレビアニメSeason 1のEXTRA R『BNWの誓い』やゲームメインストーリー第3章でおなじみ、BNW(ビワハヤヒデ、ナリタタイシン、ウイニングチケットの頭文字より。“BWN”と表記されていることもある)の激闘がくり広げられたのは1993年。ダービーは、早くから有力視されていたビワハヤヒデとウイニングチケットに、皐月賞で直線一気の追込を決めたナリタタイシンが加わり、3強の争いとなった。
1993年 日本ダービー(GⅠ) | ウイニングチケット | JRA公式
この3者、皐月賞での激闘だけでなく、騎手にもスポットが当たっていた。ビワハヤヒデの岡部騎手と、ウイニングチケットの柴田騎手のベテランふたりは、同期であり長年の好敵手。その一方で、ナリタタイシンの武豊騎手は、彼らに取って代わろうとする若き天才。ベテランの意地か、世代交代か。この対決に、メディアやファンは大いに盛り上がっていた。
果たしてダービーの結果は、直線半ばで先頭に立ったウイニングチケットが、ビワハヤヒデとナリタタイシンの猛追を退けて勝利。スタンドからは「マサト」コールの大合唱が送られた。
なお、最後の一冠・菊花賞はビワハヤヒデが勝利することで、美しい“三強”関係が完結することに。そんなビワハヤヒデとウイニングチケットは引退後、2010年に函館競馬場のイベントで再会している。ウイニングチケットの愛称“チケゾー”は『ウマ娘』でつけられたのではなく、実際にそう呼ばれていたということも加えておこう。
スペシャルウィーク、セイウンスカイ、キングヘイロー
1998年のダービーは、世代のエースとして負けられないスペシャルウィークと、皐月賞で内枠を利して逃げ切ったセイウンスカイ、そして皐月賞2着の良血馬キングヘイローが3強と目されていた。
テレビアニメ版やゲームでもおなじみのグラスワンダー、エルコンドルパサーも同期でこのときすでに注目されている存在だったが、当時は外国産馬はクラシックレースや天皇賞に出られないというルールがあり、スペシャルウィークたちとの直接対決はもう少し後の話となる。つまり、テレビアニメでスペシャルウィークとエルコンドルパサーがダービーで戦ったのは“IF”展開だ。
さて、レースは皐月賞の雪辱に燃える(ゲームでは目標レースに入っていない)スペシャルウィークが4コーナーを回って早くも抜け出し独走。鞍上の武豊騎手は、デビュー12年目にして訪れたダービー初勝利の最大のチャンスを、ステッキ(鞭)を落としてしまうほど必死で追い続けた。ゴールを駆け抜けたときは、5馬身差の圧勝。勝利後もガッツポーズをくり返すなど、アニメでもおなじみのひょうひょうとしたキャラクターからは想像できないくらい感情をあらわにしていたのが印象的だった。
1998年 日本ダービー(GⅠ) | スペシャルウィーク | JRA公式
テイエムオペラオー、アドマイヤベガ、ナリタトップロード
スペシャルウィークらの、いわゆる“98年世代(1998年にクラシックレースを走った世代)”は、たくさんの名馬を排出している。『ウマ娘』のゲームでも、彼らは“黄金世代”と呼ばれている(※)。
※テイエムオペラオーのシナリオにて言及されている。
そんな彼らよりひとつ下、1999年世代のダービーを戦ったのが、皐月賞を制したテイエムオペラオー、後に菊花賞を制するナリタトップロード、そして“アヤベさん”ことアドマイヤベガの3強だ。
テイエムオペラオーは、翌年の2000年に重賞8連勝(そのうち5つがGI)という偉業を達成し、“世紀末覇王”などと恐れられたが、ダービーの時点ではまだ鞍上も含めて未熟で、ナリタトップロードとともに、武豊騎手が駆るアドマイヤベガの強烈な末脚に屈することになる。前年にダービーの呪縛から解き放たれた武騎手の、絶妙な手綱さばきが光った戦いとなった。
1999年 日本ダービー(GⅠ) | アドマイヤベガ | JRA公式
なお、テイエムオペラオーで史実通りに天皇賞(春)、宝塚記念、天皇賞(秋)、ジャパンカップ、有馬記念を含む重賞を8連勝すると、育成終了後に専用の二つ名“世紀末覇王”をゲットできる。史実のように同年内に達成する必要はないので、クラシック級のうちにジャパンカップと有馬記念(じつは菊花賞は目標レースではないので天皇賞(秋)にも出走可能)を勝っておくと、より確実だ。
ミホノブルボン対ライスシャワー
もうひとつ。1992年のミホノブルボンとライスシャワーについても触れておきたい。テレビアニメのSeason2でも描かれたように、菊花賞でライスシャワーは、ミホノブルボンの三冠を阻むことになる。
これは現実の競馬でも同じなのだが、ではこの2頭がライバル関係だったのかというと、少なくともダービーの時点ではそうではなかった。ダービーは大本命ミホノブルボンの圧勝であり、成長途中のライスシャワーが何とか2着に滑り込んだ、というのが正しい評価だろう。ちなみにダービーでのミホノブルボンがいかに強かったかは、メインストーリー第2章内のレースパートで体験できる。
1992年 日本ダービー(GⅠ) | ミホノブルボン | JRA公式
ダービーでは、持込馬(マルゼンスキー)(※)、地方出身(オグリキャップ)、外国産馬(グラスワンダー、エルコンドルパサー)など、当時のルールによって出走がかなわなかった名馬たちも数多くおり、それらの存在がきっかけで改正されていったルールも多い。現在は、3歳のサラブレッドならセン馬以外誰でも出られるようになった。
※持込馬:外国で種付けされた繁殖牝馬が妊娠した状態で日本に輸入され、産んだ馬のこと。かつては一部のレースに出走できないなどの制限を受けていたが、1983年より撤廃された。
このように悲喜こもごものドラマを生み出してきたダービー。全7398頭(2021年)の頂点を決める戦いも、もうすぐゲートインとなる。果たして今年勝つのは? そして、今後『ウマ娘』にはどんな名馬が追加されていくのだろうか?
著者近況:ギャルソン屋城
3ヵ月かけて貯め込んだジュエルを一気に放出してガチャを200連引き、新たに星3ナリタタイシンと星3スマートファルコンをゲット。あれ、ふたりだけ……?(なお、ファル子はポイント交換)
オークスは◎アカイトリノムスメ、△ハギノピリナと冴えた予想をするもユーバーレーベンを買わずに惨敗。ダービーは素直にエフフォーリア、タイトルホルダー、ワンダフルタウンあたりの人気サイドで固めようと心に誓っている。あと同い年の池添騎手騎乗のヴィクティファルスの一発にも懸ける!
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