南海歴史館には野村の「の」の字もない
「野村さんは今でこそ社会的に認められた名将ですが、私個人としては王貞治さん、長嶋茂雄さんらと並ぶスーパースターでした。その野村さんが一番輝いていたのが南海時代。それにもかかわらず、ご厚意で作っていただいた南海の歴史館には野村の『の』の字もない。これはおかしいんじゃないかと思い、大阪球場のあった難波の地に野村さんを帰らせてあげたい。その思いから、今回のプロジェクトを実現させていくことになりました」
11月4日の会見で野球評論家の江本孟紀氏はこう語った。球界のレジェンドである野村克也氏の遺品が、大阪府浪速区の大阪球場の跡地に建てられた商業施設・なんばパークスにある「南海ホークスメモリアルギャラリー」に展示されることが正式に決まったことを伝える記者会見で、プロジェクトの発起人である江本氏が今回の展示の「意義」を強調したのだ。
南海ホークスで戦後初の三冠王に輝き、南海、ヤクルト、阪神、楽天で監督を務め、今年2月11日に84歳で亡くなった野村氏。南海球団の歴史上最高の打者だが、野村氏に関する展示は、これまでメモリアルギャラリーでは一切行われてこなかった。文字通り、「南海の歴史館には野村の『の』の字もなかった」のだが、果たしてなぜ野村氏は今日まで「南海の歴史」から抹殺されてしまったのか。そこには野村氏と南海との間で、長年にわたって解決できなかった「因縁の事件」があった——。
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話は今から50年前の1970年夏までさかのぼる。
この年、野村は南海ホークスの選手兼任監督に就任して1年目。東映フライヤーズとナイトゲームがあるため、原宿の宿舎に入った後、14時過ぎにマネージャーと2人で近くにあった「皇家飯店」という中華料理店に入った。野村がテーブルに腰を下ろしたとき、店内はマネージャーと2人だけだったが、ほどなくして日焼けした顔の、店の常連らしき女性が1人で入ってきた。すると店のおかみさんが、「監督、これも何かの縁だから」、そう言って、女性を紹介してくれた。それがのちに野村と再婚し、強烈なキャラクターでお茶の間に「サッチー」の愛称で知られることになる沙知代だった。
沙知代の第一印象を野村は「自分の考えを持った、しっかりした女性だな」と感じた。沙知代は野村がプロ野球の大スターであることをまったく知らず、日焼けした顔の野村が「雨が降ったら休まなければならない仕事です」と言ったことから、「建設現場で働いている人」だと思っていた。野村はそんな沙知代に好感をもった。このときの対面を機に、2人は急速に接近していく。野村35歳、沙知代38歳のときである。
社長令嬢の妻との夫婦生活はわずか数年で破綻
だが、沙知代と知り合った頃の野村は既に結婚していた。当時のプロ野球選手は、社長令嬢と結婚することが一種のステータスとなっていた。プロ野球選手は現役時代こそ華やかだが、引退してしまえば何一つ生活の保障がない。先行き不安定な生活に将来の安全を、と考えた野村自身も、周囲に勧められるまま、26歳のときに社長令嬢と結婚した。
だが、貧しい環境で育った野村と、裕福な環境で育った妻とは、何もかもが合わなかった。夫婦生活はわずか数年で破綻し、別居状態に。また、選手兼任監督に就任したものの、チームの状況も芳しくなく、選手を掌握し統率するのに暗中模索の日々が続いていた。
野村は公私ともにフラストレーションがたまっていた中、沙知代と知り合ったのだ。心身ともに愛情に飢えていたところに、沙知代の存在に救われた思いがした。マイナス思考の野村にとって、プラス思考の彼女の言葉に幾度も救われた。
1972年、野村が恩人と慕う川勝傳南海ホークスオーナーに沙知代との関係を報告した。69年に南海が球団創設以来初となる最下位になった時に川勝オーナーが「他に人材がいない。無理を承知で頼む」と野村に頭を下げて、選手兼任監督を誕生させた経緯もあり、野村と川勝との間には、信頼関係が築かれていたのはまぎれもない事実だ。しかし、野村と沙知代の「不倫」は社会的には決して許される話ではない。
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