
まるでおとぎ話だ。長崎県の離島、大島の県立大崎高校が昨秋の九州大会を制し、この春、選抜高等学校野球大会に初出場する。半島と小さな島々からなる西海市の高校としては史上初の甲子園となる。もちろん、全部員29名はいずれも長崎県出身だ。驚くのはそれだけではない。1人の監督が、わずか2年半で、部員5名の弱小チームを一気に生まれ変わらせたのだ。監督の名前は、清水央彦。清峰(長崎)のコーチおよび部長として春夏計4度甲子園に出場し、佐世保実業(長崎)では監督として2度甲子園に導いた。清水は野球関係者の間では伝説的な名指導者だ。しかし、「不適切な指導」があったとされ、2度、学校を辞めている。「大崎高校物語」は大崎だけでなく、そんな清水の再生の物語でもある(全3回の1回目/#2、#3へ)。 【写真】奇跡を起こした“離島の大崎高校”、練習風景など現地写真を見る(全31枚)
――じつは、私はもう、清水さんが高校野球の世界には二度と戻ってこないのではないかと思っていました。清峰、佐世保実業と2度までも、いわゆる「行き過ぎた指導」があったと見なされ、学校を追われました。 清水 絶対に戻りたくないという思いも半分、ありましたね。 ――もう半分は。 清水 戻らないといけないという思いです。 ――戻ったら、また、過去をほじくり返されるとは思わなかったのですか。 清水 あったことをなかったことにするつもりはまったくないので。「佐世保実業を辞めたとき、犯罪者のような扱いでした」
――2013年秋に佐世保実業を辞め、翌年からは西海市の職員になっています。その経緯を教えてください。 清水 清峰時代、西海市出身の教え子がいたんです。それでその親御さんが、西海市長だった田中隆一さんのご近所だったらしく、どこまで本気だったのかわかりませんが、ことあるたびに「清水さんを西海市に呼んでください」とお願いしていたそうなんです。佐世保実業を辞めたとき、僕は犯罪者のような扱いを受けていました。街もまともに歩けないような状況で。そんなタイミングだったので、田中市長は、今なら来てくれるかもしれないと思ったそうなんです。 ――なるほど。佐世保で結果を出し続けているときはさすがに無理だと思ったけれども、苦境に立たされている今なら手を差し伸べれば応じてくれるかもしれない、と。 清水 はい。謹慎が空けるまでは西海市の教育委員会で働いて、そのあと、西海市の高校野球の指導者になって欲しいと頼まれました。ただ、日本学生野球協会から下った謹慎処分は、最終的には誤解が解けて2年半になりましたが、その時点ではまだ無期謹慎だったんです。それでも田中市長は、私が報道内容は事実ではなく、じつはこういうことだったんですと話したら、それを信じてくれ、待つと言ってくれたんです。こんな自分にそこまで言ってくれる人がいるなら、また高校野球の現場に戻らなければならないと思ったんです。
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