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【箱根駅伝】40年前、駒大・大八木監督が筆者の小学校に来ると…「友達がターボがかかったように速くなった!」

posted2021/01/04 17:03

 
【箱根駅伝】40年前、駒大・大八木監督が筆者の小学校に来ると…「友達がターボがかかったように速くなった!」<Number Web> photograph by JMPA

大逆転劇を演じた駒澤大学を率いる大八木弘明監督

text by

高木圭介

高木圭介Keisuke Takagi

PROFILE

photograph by

JMPA

 その男は約40年前、私が通っていた小学校(川崎市立西丸子小学校)に学校用務員(※自治体によっては現在「技術員」とも呼ばれる)としてやってきた。細かい時期は忘れたが、昭和55(1980)年か56(81)年のことだ。
 
 朝礼にて紹介された彼はスラッと背が高く、当時の日本人男性にしてはかなり小顔。その頃、たのきんトリオ(田原俊彦・近藤真彦・野村義男)に夢中になっていた女子たちが「今度きた用務員さん、カッコいいよね~」と赴任早々、早くも話題にし始めていたほどだ。
 
 男の名は大八木弘明。そう、箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)で駒澤大学を13年ぶり7度目の優勝に導いた熱き名伯楽・大八木弘明氏(駒澤大学陸上競技部監督)の若き日の姿である。

走って帰宅する姿も印象的

 以下は小学校で呼ばれていたまま「大八木さん」と記させていただく。その西丸子小学校(川崎市中原区)は現在、川崎フロンターレの本拠地である等々力陸上競技場に隣接した立地となっているが、サッカーのプロ化(93年~)など、まだまだ未来の話である80年代には観客席も拡張されておらず、「隣接」と呼べるほど近くはなかった。それでも校内のマラソン大会など、スポーツ行事の際には、あの競技場を使用していたので、地元住民にとってはなじみ深い存在だった。

 大八木さん自身は、川崎市の職員として、市内の小学校に赴任していたに過ぎない。なので生徒たちの会話などは存じなかっただろうが、いきなり小学校に現れた背の高い若き青年の姿は、当然のように話題になっていた。放課後に業務を終えると、ランニングに短パン姿に着替え、リュックを背負って小学校から走って帰る姿も斬新だった。前任の用務員さんが、昭和50年代初期のスーパーカーブームを受けて日本国内で生産された「サバンナ RX-7(マツダ)」で出勤していたのと、あまりに対照的だったせいもある。

【次ページ】 当時は寡黙なタイプに見えた

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