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大八木淳史氏「スクール★ウォーズ」魂伝授 無観客も「節目の大会に誇りを持って」 - スポーツ報知

 第100回全国高校ラグビー大会は27日、東大阪市花園ラグビー場で史上最多63校が出場し、開幕する(決勝は1月9日)。伏見工(現・京都工学院)時代の1979年度に選手で、現役引退後には高知中央ゼネラルマネジャー(GM)として指導者で花園出場を経験した元日本代表ロック大八木淳史氏(59)が当時の思い出を回顧。コロナ禍のなか、節目の大会に臨む高校ラガーへエールを送った。(取材・構成=田村 龍一)

 大八木氏の原点は、だ円球と出会った伏見工高時代。山口良治監督(77、現総監督)の教えは今も心に残る。

 「忘れられないのが高3の夏合宿。足首が痛くて、練習試合で手を抜いたプレーをしたら、むちゃくちゃ怒られ『けがをしてもお前は高校日本代表だ。あらゆる人間が期待する』と。あれから多少のケガでは休まなくなり、現役引退まで貫いた。高校ラグビーがなかったら今の僕はない。思えば、入試の日に元日本代表選手の山口先生から『大きいな、ラグビーやれへんか。日本代表になれるぞ』と誘われ、15歳の僕の心に刺さった。仲間と共に相手に立ち向かうラグビーの面白さをソウル(魂)にたたき込まれた。山口先生には感謝しかない」

 3年時に花園初出場。1、2回戦は大勝も準々決勝で前年度優勝の国学院久我山(東京)に敗れた。翌年度、伏見工は1学年下の平尾誠二氏(後の日本代表監督、2016年死去)らが初優勝し、学校荒廃からの戦いぶりはドラマ「スクール☆ウォーズ」のモデルにもなった。

 「花園初出場を決めた試合の内容が悪く、喜びより山口先生に怒られた方が思い出。僕は高校日本代表で大きな試合に慣れていて花園の雰囲気にのまれることはなく、チームも順当に2連勝したが、久我山は強かった。試合運びが一枚上。完敗で終わったけど、一緒に戦った平尾らが(前年度の)経験を糧に次の冬、初優勝した姿を見届けた時はうれしかった」

 引退後の2007年に高知中央GMに。創部から関わり5年目の花園初勝利へ導いた。

 「就任時は正直、まだドラマのような世界はあったのかと思った。やんちゃな生徒が多く、暴走族とケンカした生徒がいたり、地元の大阪まで帰った生徒を迎えに行ったり…。それでも練習で一緒に汗を流し、一つのチームになっていった。山口先生も当時高校生だった僕らと相撲を取ったり、一緒に練習してくれた。僕も人との出会いで人は変われると信じて取り組んだ」

 2008年度の花園初出場から3大会連続初戦敗退も、2011年度の1回戦で35―17で山形中央を下し、念願の初勝利。大八木氏にはその歓喜以上に印象深い出来事があった。

 「前年度に後輩への暴力で退学になった部員がいた。レギュラーで花園にも出た選手。仲間への暴力だっただけに僕も許せなかった。その子が花園の山形中央戦を見に来た。初勝利に沸く元チームメートを見て『俺も残っていたら試合に出られたのになあ』とつぶやいた。彼は短気を起こして暴力を振るった事を猛省し、心底あの試合に出たかったのでしょう。あの気持ちをその後の人生で生かせば、短い間でも高校ラグビーに打ち込んだ意味はある」

 コロナ禍の中、無観客で第100回大会開幕のキックオフの笛が間もなく鳴る。

 「無観客でも開催する意味がある。原点回帰するいい機会。人が見ていなくても自分のやるべきことをやる。チームでやるべきことを遂行し相手に勝つ。ひたむきな姿はテレビ観戦の人にも伝わる。歴史の中の節目の大会に臨むんだと、誇りをもって戦ってほしい」

 ◆大八木 淳史(おおやぎ・あつし)1961年8月15日、京都市生まれ。59歳。77年に伏見工でラグビーを始め、3年時に花園に初出場し8強。同大では大学日本一を4度経験。85年に神戸製鋼入社。88~94年度、日本選手権7連覇。日本代表30キャップで87、91年W杯出場。ポジションはロック。190センチ、110キロ(現役時代)。97年度で現役引退後、07~11年、高知中央高GM。現在は講演、タレント活動を行う。

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